LOGIN「ちょっと多目的ホール行ってきます」
そう言い残して廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「ナベ〜、ちょっと待って」
橋本さんだった。
「どうしたの?」
「私も行く」 「そう。橋本さんは今日の授業、受けてた?」橋本さんはみんなから裕子と呼ばれていたが、僕は名前呼びが気恥ずかしいので橋本さんと呼んでいる。
「ねえ、ナベも裕子って呼んでよ」
橋本さんに上目遣いで見つめられ、目が泳ぐ。
「えぁ、あー……裕子、ちゃん」
体温が上がる。顔も赤くなっているかもしれない。
「やだ。ちょっとドキドキする」
橋本さんも照れていた。
「そうだね……いや、なんか本番前の舞台を見ておきたくてさ。とくに用事があるわけでもないんだけど」
空気に耐えられず話題を変えて早口でしゃべる。
「わかる。私も見たい」
「あ、多目的ホール開いてるかな」階段を上って三階についた。
「今日本番だし、誰かいるんじゃない?」
橋本……裕子ちゃんの言う通り、ドアが開いた。金槌の音がする。佐々木さんが舞台装置の補修をしているみたいだ。
『おはようございます』
佐々木さんの他にも、多目的ホールには主役三人のうちの二人、ブラザーさんと伊藤哲也先輩がいた。伊藤先輩は金八と呼ばれている。たぶん名前がてつやだからだろう。今回の芝居の中でも金八のモノマネをしていて、けっこう似ていた。
「佐々木さん、なんか手伝うことあります?」
「おーナベくん、いいところに来た。ちょっとこれ押さえててくれる?橋本さんも暇なら足ちょっと踏んでて」佐々木先輩は舞台装置の壁と壁の継ぎ目を目立たなくしようとしているところだった。壁の裏から押さえていると、金槌の衝撃がけっこう響いてくる。橋本さんは壁に取り付けられた足の枠組みの中にしゃがんで入り、ちょこんと座って体重を乗せている。おしりをつけない体育座りのような、ちょうどスズメが電線にとまっている様子に似ている。僕は左腕で壁と壁の継ぎ目を押
自殺する直前、ブラザーさんは精神科医役の久美子さんと電話をする。「芝浦くん!小山くんが必死に探してたわよ?一年も連絡とれないなんて」 芝浦はブラザーさん、小山は金八さんの役名だ。 「ああ、あのときは本当に悪いことしちゃったな。演劇どころじゃなくなっちゃって」 「なにがあったの?」 「いや、いろいろあったんだけど、また今度話すよ。それよりもさ、学生時代、楽しかったよな」 「そうね、私と芝浦くんと小山くんで一緒にお芝居して。私もね、小山くんから劇団の旗揚げ手伝ってくれないかって誘われたのよ」 「そうなんだ、あいつそんなこと一言も言わなかったぞ」 「断ったからね」 「簡単に医者はやめられないよな」 「芝浦くんだって、簡単にやめたわけじゃないんでしょう?」 「……どうだったかな。逃げたかったのかな、家から」 「本当に大丈夫?」 「大丈夫大丈夫!たいしたことないんだ。それより笹田はすごいよな、精神科医になっちゃうなんてさ」 笹田は久美子さんの役名だ。 「そんなことないわよ。でも、悩みがあるなら聞くわよ?」 「……ああ、うん。今度たのむよ。今日はちょっと、これからまだ仕事があってさ」 「もう夜じゃない。夜勤の仕事?」 「そうなんだ、ずっと忙しくてさ」 「無理しないで休みなさいよ」 「大丈夫。……あ」 「ねえ芝浦くん、今度の日曜ひま?久しぶりに飲まない?」 「……ああ、うん。そうだな。久しぶりに飲もうか」 「ごめん、さっきなに言いかけたの?」 「いや、大したことじゃないよ。また日曜日な。店決めたら連絡するよ。それじゃまた」 「うん、またね」 この電話の直後にブラザーさんは自殺し、その一ヶ月後に金八さんのもとにブラザーさんの弟を演じる骨折さんから電話がかかってくる。
「ごめんな、みんな」 舞台上にブラザーさんが立っている。一人たたずんでいるブラザーさんはやがて顔を上げ、目をつむる。ブラザーさんの姿を切り取っていたサスの光が薄くなると同時にバックライトが照らされ、ブラザーさんの姿は影になって光の中に消えた。 場面は切り替わり、久美子さんと金八さんがバーでお酒を飲む演技をしている。そこへオカマバーのママとしてブラザーさんが現れる。爆発に巻き込まれた後のようなアフロヘアのカツラをかぶっている。顔の整ったブラザーさんのオカマ姿に会場から笑いが漏れる。これは三人が学生時代に演劇をしているシーンだ。 演劇サークルに所属していた三人は卒業を迎え、それぞれ別の道へ進む。ブラザーさんは父の家業を継ぐために中小企業で働き始め、金八さんはサラリーマンになり、久美子さんは精神科医になった。 数年後、金八さんからブラザーさんに電話がかかってくる。「劇団始めませんか」 金八さんがブラザーさんを勧誘している。「なんだよいきなり」「劇団、はじめませんか!」「お前、会社に勤めてんだろ。そんな暇あるのか?」「会社辞めた」「は?」「ムカついたから辞めてやったんだよ!だからさ、いま俺すげー暇なわけ」「おまえ、どうやって生活してくんだよ」「貯金あるから数年は大丈夫だ」「演劇で稼ぐなんて厳しいだろ」「俺さ、お前がいればがんばれる気がするんだよ。一緒にやらないか?」「俺だって仕事してんだよ」「どーせ大した仕事じゃねーだろー」「俺の実家だぞ!おまえ、勧誘する気あんのか!」「お?てことは、勧誘される気あるんだ?」「……そうは言ってねえよ」「そっか。まあ考えといてよ」 このあとブラザーさんは家業を辞め、金八さんと劇団を旗揚げする。劇団員の募集をすると部長やコロさん、田中さんたちが集まってくる。メンバーが集まり稽古を始める。ギャグシーンが続き、会場が沸く。実際にお客さんの反応が見られると嬉しくなった。そして劇団は初公演を迎え、ブラザー
開場まであと十分になった。全員で輪になって座る。脚本演出のシュン先輩が話し始める。「えー。だれも怪我や病気にもならず、無事公演の日を迎えることができました」 そこで爆笑が起こる。「シュンさん、俺俺」 右腕にギプスをつけた高橋先輩がツッコむ。前は違うあだ名だったらしいが、僕が入学して間もない頃に骨折したらしく、今は骨折と呼ばれている。ひどいあだ名だ。本当は出番の少ない骨折さんが音響操作をする予定だったらしいが、骨折したためシュンさんが音響操作をすることになったらしい。骨折さんは僕が今回サイドスポットを当てる先輩だ。「誰も怪我せず!みんなよく俺についてきてくれました。ゲネ見たけど、みんなおもしろい。俺の予想をこえてくれてありがとう。もうすぐ開場だからこのへんでやめにして。円陣!」 全員が集まって手を重ねる。多すぎて近づきにくいので僕はしゃがんで手を重ねる。「いくぞー!!」 『おー!!』 全員で拍手をする。「はい、じゃあ最後トイレ忘れないように」 何人かトイレに向かう。僕はサイドスポットで待機する。「ちょっとみんな、もうお客さん並んでるよ〜」 トイレから帰ってきた山崎先輩はちょっと嬉しそうだ。山崎先輩は部員からコロと呼ばれている。なぜそう呼ばれているのかは知らない。「それじゃ、発声とかやめて舞台袖に待機して!」 舞台監督の山口さんの一声で役者陣が舞台袖へ消えていく。「戻ってきてない人いない?いたら教えて。……いないね?それじゃ、ちょっと早いけど開場します。客入れ曲準備してください。開場早めるって受付に伝えてきます」 山口さんは外へ出てすぐに戻ってくる。「では、開場します!」 客入れ曲のイントロが流れ始め、山口さんがドアを開放する。すでに受付を終えていたお客さんが入ってきた。「いらっしゃいませ〜。お好きな席へお座りください」 A席B席S席など、座席指定はなく全て自由席だ。完売はしていないらしいので、それで大丈夫なのだろう。僕もいらっしゃいませ
僕は三コマ目と四コマ目をサボって佐々木さんの手伝いをしながら多目的ホールで過ごした。時間が経つに連れ、どんどん部員が集まってきた。四コマ目が始まる時間になると役者はほぼ全員あつまったので、シュンさんが昨日のダメ出しを始めた。ダメ出しとは言っても、いつものようにここを直してほしい、というようなものではなくて褒めることが多かった。本番前だから役者たちの気分を上げるためなのか、本当に完成度が高くなったのか。素人の僕にはよくわからないけれど、昨日のゲネを見ていておもしろかったので、本当に言うことがないのかもしれない。 五コマ目が始まる時間になると、裏方のスタッフも含めてほぼ全員が多目的ホールに集まっていた。柔軟運動、ストップモーション、発声練習、筋トレといつもの稽古前のメニューをこなす。開場まであとだいたい一時間半だ。役者陣は思い思いに自主練を始めている。音響、照明スタッフも操作練習をしている。ふいに照明が変わったり、突然曲がかかったりして、そういう雰囲気が本番前の緊張感と高揚感を増している気がした。 僕は制作を手伝って観客の受付台を準備した。制作の方にはあまり関わっていなかったので知らなかったが、厚紙に公演名と時間・場所・料金などが印刷されたチケットを販売していたらしい。チケットの回収箱と、当日の観客用に現金入れ、アンケート回収箱が用意されている。 演劇を観に行ったことがほとんどないので知らなかったが、お客さんに配る公演のパンフレットにはアンケート用紙を入れるのが普通なんだそうだ。芝居を観てその場で感想を書きたいお客さんもいるし、こちらもお客さんの反応を知りたいからだ。パンフレットには台本導入部のあらすじやスタッフと役者からの言葉が載せられている。部室には過去の公演で回収したアンケート用紙が保管されている。 チラシもたくさん刷られていて、学内にも貼られているので歩いているとよくチラシが目についていた。知り合いの写真家にポスター撮影を依頼したらしく、モノクロで主役三人を撮影したセンスのいい写真だった。 配りきれなかったそのチラシの余りを多目的ホールの両開きのドア全面に貼り付けていく。チケットの料金は千円だった。よくわからないが学生演劇の値段はこのくらいが適当なのだろうか。
「ちょっと多目的ホール行ってきます」 そう言い残して廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。「ナベ〜、ちょっと待って」 橋本さんだった。「どうしたの?」 「私も行く」 「そう。橋本さんは今日の授業、受けてた?」 橋本さんはみんなから裕子と呼ばれていたが、僕は名前呼びが気恥ずかしいので橋本さんと呼んでいる。「ねえ、ナベも裕子って呼んでよ」 橋本さんに上目遣いで見つめられ、目が泳ぐ。「えぁ、あー……裕子、ちゃん」 体温が上がる。顔も赤くなっているかもしれない。「やだ。ちょっとドキドキする」 橋本さんも照れていた。「そうだね……いや、なんか本番前の舞台を見ておきたくてさ。とくに用事があるわけでもないんだけど」 空気に耐えられず話題を変えて早口でしゃべる。「わかる。私も見たい」 「あ、多目的ホール開いてるかな」 階段を上って三階についた。「今日本番だし、誰かいるんじゃない?」 橋本……裕子ちゃんの言う通り、ドアが開いた。金槌の音がする。佐々木さんが舞台装置の補修をしているみたいだ。『おはようございます』 佐々木さんの他にも、多目的ホールには主役三人のうちの二人、ブラザーさんと伊藤哲也先輩がいた。伊藤先輩は金八と呼ばれている。たぶん名前がてつやだからだろう。今回の芝居の中でも金八のモノマネをしていて、けっこう似ていた。「佐々木さん、なんか手伝うことあります?」 「おーナベくん、いいところに来た。ちょっとこれ押さえててくれる?橋本さんも暇なら足ちょっと踏んでて」 佐々木先輩は舞台装置の壁と壁の継ぎ目を目立たなくしようとしているところだった。壁の裏から押さえていると、金槌の衝撃がけっこう響いてくる。橋本さんは壁に取り付けられた足の枠組みの中にしゃがんで入り、ちょこんと座って体重を乗せている。おしりをつけない体育座りのような、ちょうどスズメが電線にとまっている様子に似ている。僕は左腕で壁と壁の継ぎ目を押
翌日。金曜日なので、いつもどおり授業があるが妙にそわそわして集中できなかった。今日の授業は四コマ目で終わるので、本番開始まで少し余裕がある。昼になり、なんとなく部室で昼食をとることにする。生協で弁当を買ってサークル棟へ向かう。部室にはけっこう部員がいた。「おはようございます」 始めのうちは自分が受け入れられているのか自信がなく気後れして入りにくかったが、部室に入るのももう慣れた。平日は午後六時から午後九時半まで、授業の隙間や昼もこうして部室にいたので、なんというか家族よりも一緒にいる時間が長い気がする。「おっはよー!」 元気な声で橋本さんが挨拶を返してくれる。他の部員たちも口々に挨拶してくれる。そういうなんでもないことがなんだか嬉しい。世間では何でもないことかもしれないが、僕にとっては貴重だった。「来たな、ナベ」 ガジンはカップラーメンを食べている。部室には十人くらいいてちょっと手狭に感じる。「なんか授業中もそわそわしちゃってさ」 テーブルがあいてないのでプラスチック製のビールケースに座る。どこから持ってきたのかわからないが、演劇研究会の部室にはビールケースがやたらとたくさんある。舞台で使うのだろうか。「わかる」 ガジンはラーメンをすする。「ガジンくん、今日ずっと部室か多目的ホールにいるでしょ」 そうツッコむのは主役の一人の久美子先輩だ。前田先輩は部員たちから久美子と呼ばれている。「そわそわしすぎて授業どころじゃないんですよ」 「あー、危ない。ガジンくん留年しそう」 久美子先輩はニヤニヤ笑っている。「もう浪人してんですから留年は勘弁してほしいですね」 「えっ!?ガジン、浪人してたの!?」 初耳だった。同い年だと思っていた。「うん、俺二十歳」 「うそ!?成人もしてたんだ」 珍しく大声を出してしまったがこれも初耳だ。自由に生きてるとは思っていたが、意外だった。「そうそう、俺もう酒飲めるよ」 「うっそー!?